優しい世界って聞いたらどんな世界を思い浮かべるでしょうか。最近ずっと次のステージを目指していて、その世界って次元の高いところや、どこか上の方にあるものなんではないかと、なんとなく思っていました。
波動を高めて豊かになりたいとか、チャレンジしていきたいとか、そんな風に頑張っていたように思います。
肩肘張って、無理するぐらいがいいのかもしれないと。無理しないと手に入らないくらいに思っていた。
私の目に映る全ては、私が映し出す世界でしかないのはわかってはいるのだけど、でも私の今いる場所は私が求めている場所とは全然違う、別の場所にいる。
そもそも意地張って頑張って孤独になって手に入れた先に、本当の豊さってあるのかな?
そんな風に思うようになりました。
それはなんか違うよね。
なんか違うと思った時、それは自分自身がなんか違うんですよね。世の中や他人に思っていることというのは、つまり自分そのものがそのように映し出しているってだけのことなんだよね。
だから自分自身が思っている自分とはなんか違っているってことなの。
例えば自分が豊かになるには自分の周りにも豊かな人ばかりになるってことで、それって誰かから奪ったり出し抜いたりして孤独になって孤立して、人から妬まれて、そんな風に豊かになるってことはないってことだ。
豊さとは膨らみであり広がりである。
そしてそこに到達するには割と茨の道なのです。
ショックなことがあって傷ついたかもしれないし、病気になってしまうことかもしれない。
本当に人に優しくできる人はそれほどのどん底を知っている人。
よく、運命の人にはどん底の時に出会うよって言われているけど、世の中にはどん底の時にしか見えない世界がある。
泣きっ面を蜂に刺されて顔がぼっこぼこで前が見えなくてさらにつまずいて足の骨を折って、歩けなくなって、そんでようやく誰かに助けを求める時。
そんな自分に手を貸してくれたらどんな人だって神様に見えるよね。
そんな出来事に出会わなくても、
みんな年を取ったらいつかおじいさんやおばあさんになる。
歳を取るにつれ目がよく見えなくなって、腰が曲がっていって、何をするにも若いときみたいにいかなくなって、最初はそれにもイライラするけど、
段々と感覚も鈍くなって、記憶も危うくなって、誰かの手を借りないといきていけなくなって、恥ずかしさや情けなさの中で、それでも頼るしかなくなって、
最後にはそんなことすら忘れて小さな子どものような魂にかえっていく。
そんな風にして誰もがいつか優しい世界に行きつくのかもしれない。
そんなことを思い、そういう気付き方じゃなくてそうなる前にそんな世界に早めに行ってしまってもいんじゃないかなあ。
生きているとうまくいかないこともあるよね。
そんな時に、優しくて丁寧な世界を目指したいと思いました。
武装することをもう辞めてしまいたい。
鎧なんかつけなくてもいつでも自分らしくピッと立っている。
目指していくところはそんなところ。
優しくすることが恥ずかしくてなんか怖い。そんな自分の殻を壊していくことが、本当に豊かになっていくことなのかもしれないよね。
なんとなくそんな風に思った。